Voice12月号「「群衆心理」×民俗学で考える同調圧力」掲載されました

PHPの月刊誌『Voice』12月号に拙文を掲載していただきました。

ルボンの『群衆心理』に見られる、人びとが集合化するときに見られるムーブメントと、拙著『経済更生運動と民俗』でも示した、強圧的ではないながらも、むら全体を同調させていく「空気」について交差させて考えてみたいと思いました。

それは現在もつづくコロナ禍においても、自粛をせねばならないという空気が存在し、それに従わない人に対しては何かしらの攻撃を行う「自粛警察」的な雰囲気が作られていました。しかし、それに対して「その考えは正しいのか」という問いを立てて、物事を判断する生き方が、今の私たちには大事なように思うのです。

2020年4月には、東京都でパチンコ店の営業自粛がいわれ、営業をしている周辺の県にパチンコ客が流れていったときに、周辺住民が追い返すような行動を取ったことがあります。心理的には理解できるますが、「果たしてパチンコ店やパチンコ客が感染拡大の大きな要因か」といえば、そのようなことはないのです。パチンコは台に向かってやるもので、対面で飲食しているよりは、全く感染要素は低いといえます。

問題は、集団化してパチンコ客やパチンコ店を責める空気を作ってしまうことを、今一度考えていくべきかと思います。

かつての農山漁村での掟(といいますかむらの約束事)で、暗黙のものもあれば、成文化されたものもあります。

それを守らなかったとき人や家に、村人が集団でパージしていく例は多々あります。パージする側の村人も考え方はいろいろなはずで「そこまでしなくても」と思うひともいるでしょう。しかしながらも、反論できない空気が作られ、それに流される。

現代の私たちの中でもありますね。学校社会におけるクラス内の空気、会社の人間関係、住民説明会などでの公聴会などなど。

でもよく見ていると、影響を与える人がその空気を作り出していることが多いのです。

拙著で読み直した更生計画書でも、むらのリーダーが違反者に対して厳しい姿勢を示すことで空気を作っています。

(そういうむらほど「模範村」的に見られます。何だかな。)

そのような空気が作られるとき、現代の私たちは「待てよ」といったん止まってその空気に問いを立てることが重要に思います。そして「その空気は合わさなくてもよい」という選択肢も、大事であることを考えるのが、コロナ禍での私たちの判断ではないでしょうか。

「空気」を考え直す著作が多く世の中に出てきました。とても世の中の常識とされることに疑問の問いを立てることが大事ということを、私たちは求めているように思います。

現代の私たちが生きる社会の中で、特にコロナ禍では、メディアに流されず、また口伝に流されず、雰囲気に流されない生き方を

持つべきかなと思うのです。

19正規に書かれたルボンの著作を読むと、改めてコロナ禍の現代を生きる私たちの読み方ができるのではと思うのです。

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