「博物学的関心の深化と人生の転機-採集遺物3点と柳田國男の1900年代-」公刊

  • 投稿日:
  • by
  • カテゴリ:

国立歴史民俗博物館の共同研究「柳田國男収集考古資料の研究」で私が担当した箇所の拙論が3月に公刊されました。

この共同研究は設楽博己先生(東京大学)、工藤雄一郎先生(国立歴史民俗博物館)が中心となって行われたもので、柳田が所有していた考古資料が長男の為正氏に渡されそれが古書店商の蓑原泰彦さんにわたったものが、歴博に寄贈されたものからの考察です。なんだか伝言ゲームみたいな所蔵品のわたり方ですが、考古学嫌いといわれた柳田の考古学への関心を考える機会となりました。

私は1900~1910年までの柳田のライフステージと関連させて、いつ採集されそのとき柳田は何をやっていたのかを中心に書いてみました。

私が主として対象にしたのは3つの採集遺物です。

ひとつは「信[ ]伊那、下川路・・・」の表記ラベルのある打製石斧です。

柳田は、1901年、26歳のとき長野県全域(南木曾方面をのぞく)を40日間かけて、農事講習会で巡回しており、また養嗣子となった柳田家がある飯田にはじめて出向いています。このときの柳田の行程については後藤総一郎氏の『別冊 柳田國男伝 年譜』や『定本 柳田國男集 別巻5』にて知ることができますが、下川路に寄ったかどうかは不明です。現在の下川路は飯田市に入っていますが、飯田市飯田からは少し距離があります。とはいえ、このあとの長野訪問旅行の時期を考えると、この年に下川路に訪れたあるいは誰かからもらったなど考えるのがいちばんしっくり考えられます。

ふたつめは「・・・[ ]田馬場 水稲荷境内」の注記ラベルがある打製石斧です。

柳田は1900~1904年に高田馬場にある早稲田大学で農政学の講義を担当しています。おそらくその時期に採集されていると思われますが、現在の水稲荷神社の場所ではなく、もとあ神社跡地ではないかなと推察します。もとの神社があった場所は現在早稲田大学敷地内となり、現在の神社は大学と換地して移設したとのことです。

みっつめは書付和紙にくるまれた自然小礫です。

書付には「福島縣伊達郡半田村大字南半田・・・明治三十八年」とあるので、現在の桑折町付近であることは明確で、年代も記されています。柳田は、農商務省嘱託として明治38(1905年)年8月30日から9月12日にかけて福島県に講演旅行に出向いています。

この3つを見て思ったのですが、柳田が20歳代後半~30歳代前半の若い頃であり、全国の産業組合関係の講習会、講演会に出向いている時期に採集していることに気づきます。また、『後狩詞記』(1909年)『遠野物語』『石神問答』(ともに1910年刊行)といった3部作につながる1900~10年代に考古学的関心が高かったこと、もあわせて交差して考えることができます。

大変興味深く柳田の若い頃の足跡と考古資料を組み合わせて考えることができました。

歴博のリポジトリには1年後web公開される予定です。

もしご興味を持っていただけるようでしたら、ご連絡ください(kenwada@faculty.chiba-u.jp) 。抜き刷りを送らせていただきます。